vol.1 1907年
エンジン音とともに
ダイハツの歴史が始まる
日本の産業革命が佳境に入ろうとしていた1907(明治40)年、ダイハツは「発動機製造株式会社」として大阪で創業した。設立を計画したのは官立大阪高等工業学校(現・大阪大学工学部)校長の安永義章博士ら学者たちであった。「日本の真の工業化には内燃機関の国産化と普及が不可欠」との信念に基づくもので、こうした想いに賛同した大阪の財界人との「産学連携」による当時では異例の企業発足となった。
1907年3月1日に開かれた創立総会では初代の経営トップである岡實康専務取締役らを選任した。その後、大阪駅近隣地で工場などの建設に着手、完成を見た9月に総勢約70人で事業を開始した。当時の内燃機関は輸入品による実物はあったものの、設計図や文献はなく技術者は連日連夜、研究を重ねて幾多の困難に立ち向かった。1907年12月には吸入ガス発動機の試運転に漕ぎつけ、直後の株主総会で披露することとした。ところが発動機がなかなか始動せず、出席者の一部が帰り始めた時にようやくエンジン音が響き、株主からは賞賛の声があがった。出力6馬力の国産第1号の吸入ガス発動機の完成だった。
1908年には高出力化も順次実現して発電用の100馬力を納入、1909年には船舶用にも進出した。産業界から高い支持を得たことで1908年5月期決算(当時は6ヵ月決算)では早くも純利益を確保している。業容拡大に伴って経営体制を整えるため、1911年12月の取締役会において社長制を導入し、黒川勇熊専務が初代社長に就任した。時代が明治から大正へと移る中、好調な受注によって生産増強が必要となり、1915(大正4)年から4年をかけて工場の拡張に取り組んだ。敷地も拡大され1919年には創業時の約2倍となった。この間、吸入ガス発動機のさらなる高出力化の一方で、船舶用蒸気機関にも参入し、1917年には貨物船用に初納入した。原動機の国産化による工業立国への貢献という創業の理念を、着実に具現化していった。
vol.2 1920年
自動車製造の開始と
ダイハツの由来
大正から昭和へと時代が移る1920(大正9)年代の日本経済は混迷を極めた。1923年には関東大震災、1929(昭和4)年にはニューヨーク株式の暴落による世界大恐慌が起こり、国内の産業界も苦境に追い込まれた。
この時期、鉄道車両用の制動装置部品や小型ディーゼル機関(商品名「超ディーゼル」)といった新分野を開拓して打開を図っていたが、1930年には新たにオートバイ用の空冷4サイクル・ガソリンエンジンを開発した。当時、輸入したオートバイ用エンジンで小型三輪自動車を製造する小規模事業者が増えており、この分野でも国産化を図ることにした。創業期と同じで図面や参考文献はなく、輸入品から図面を起こして試作を繰り返した。
1930年に完成した最初のエンジンは500ccで、同年夏に商工省が開いた工業製品の展覧会では、「外国製エンジンと同等またはそれ以上」との高い評価を得た。しかし、世の中では輸入品信仰のようなムードがあり、国産品には妥当な評価がされず、三輪自動車の事業者にも当社のエンジンはなかなか売れなかった。
そこで、自社エンジンによる小型三輪自動車の製造に乗り出すことを決定、1930年12月には500ccの「HA型ダイハツ号」を製作した。1931年3月には、改良モデルの「HB型」を発売、これが市販第1号車となった。当社がエンジンメーカーから自動車メーカーに移行する一大転機だった。また、国内自動車産業としても、それまで零細に行われていた三輪自動車の生産が近代化へと歩みを進める契機ともなった。1933年以降はエンジンや車体、積載量などのバリエーションを増やし、1937年に当社の三輪自動車生産は5,122台と初めて5,000台を突破した。「ダイハツ」を製品名に用いるようになったのは、三輪自動車に進出した1930年からで、この年に発売したディーゼル機関も「ダイハツ重油機関」とした。ダイハツの由来は「大阪にある発動機製造会社」の略称として、お客さまからダイハツと呼ばれていたことに始まる。そして、戦後の1951年12月には「ダイハツ工業株式会社」として社名変更した。
vol.3 1957年
二輪でも四輪でもない
軽三輪トラック「ミゼット」
戦後、急速な普及が進んだ三輪自動車は、ユーザーの要望もあり、車種の多様化や大型化が進んだ。結果として、性能や価格が小型四輪自動車に近づき、その特性がしだいに失われていった。一方で、運搬を主な用途とする国産の二輪車も台頭していたが、積載量には限界があった。そうした三輪自動車と二輪車の間の潜在需要に着目し、ダイハツが1957(昭和32)年に発売したのが軽三輪トラック「ミゼット」である。
軽三輪トラックは「小回りが利いて、取り扱いに便利、かつ経済的」をコンセプトとして1953年から開発を具体化させ、1954年末には専用エンジンや車体による試作1号車を完成させた。同時に主として二輪車ユーザーを対象とした市場調査も進め、二輪車や小型三輪車の不満点などを分析した。1956年には市場調査を反映させた最終設計に着手、ミゼットの商品化につなげた。最初のモデル「DKA型」は249ccエンジン、300kg積み、バーハンドルで当初の月産能力は500台だったが、発売翌年の1958年8月の生産実績は約800台に達した。
1959年以降は2人乗りキャビンと丸ハンドルの採用やエンジン、積載量の拡大などの改良を重ね、軽三輪トラックという新たな市場を開拓する大ヒットモデルとなった。1960年9月には登録累計が100,000台を突破、同年の年間登録台数は86,000台に達した。1959年からはタイなど東南アジアへの輸出も始まった。
ミゼット人気を支えたのは、抜群の機動力、低価格、軽免許で乗ることができる手軽さだったが、当時、普及が進んでいたテレビでのコマーシャルが大きく後押しした。人気コメディアンの大村崑、佐々十郎によるユーモラスなCMが1958年から流れ、ミゼットの名はまたたく間に全国に広まった。併せて販売員に対して、商品知識の徹底を狙ったセールス講習会、ミゼット写真ニュースの発行といった地道な販売促進活動も展開して成果につなげた。
さらにミゼットの発売にあたっては1957年に「軽三輪自動車営業課」を新設し、販売会社と交わす契約書や販売マニュアルなどを作成した。販売会社とは契約よりも個人的な信頼関係が重視される時代だったが、アフターサービスも含む営業や販売制度の近代化を進める転機ともなった。
vol.4 1967年
トヨタ自動車との
関係構築の始まり
1960(昭和35)年代に入って日本の自動車産業は大きな転機を迎えた。貿易、資本と順次自由化が進められ、海外メーカーとの本格的な競争に直面することになった。1962年末には政府が乗用車企業の集中・合併による業界の再編成を提唱し、業務提携や合併といった動きが加速していった。ダイハツも世界的な競争に打ち勝つため、後ろ盾となる企業との提携について経営陣で活発な議論をし、いくつかの道を模索していった。その結果、小石社長の決断によってトヨタ自動車(当時はトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売)グループの一員になることが決定された。約1年にわたる3社首脳の協議を経て1967年11月に業務提携覚書の調印と共同声明の発表が行われた。ダイハツが創立60周年を迎えた年でもあり、さらなる成長を目指して大きな決断がなされたのである。
共同声明には「本格的経済開放を迎えるにあたり、日本自動車産業の体制整備と国際競争力の強化は極めて緊急なことであり、両者は相互の利益増進を図るとともに、業界の健全な発展に寄与するよう相協力する。両者はおのおのの特色を生かしつつそれぞれの経営については自主性と責任体制を堅持して運営する」と謳われ、ダイハツは軽自動車を中心とするスモールカー分野を“特色”として、トヨタグループの中で新たな歩みを始めた。
1969年4月に、ダイハツは提携第1号車となる1,000ccの新大衆乗用車「コンソルテ・ベルリーナ」を発売した。「トヨタ・パブリカ」と部品共通化を図った姉妹車である。1969年9月からは池田第2工場でパブリカの受託生産も始まり、提携の成果を着々とあげた。受託車の開発・生産はダイハツの経営安定化に大きく寄与することになり、パブリカはその第1号となった。
トヨタ自動車との提携はその後、時代や経営環境の変化に対応しながら発展していく。ダイハツは1998(平成10)年にはトヨタ自動車の51%の出資を受けて子会社に、さらに2016年には全額出資による完全子会社となって新興国を含むグループのスモールカーを担っていくことになった。
vol.5 1977年
「シャレード」が
アフリカ・サファリラリーや
フランス・エコランで大活躍
1977(昭和52)年11月に発売された「シャレード」は、優れた経済性などが高い評価を受け、ダイハツでは初の快挙となる「’77カー・オブ・ザ・イヤー」に輝いた。
シャレードの開発コンセプトは、「広くて小さい快適な経済車」であり、「快適な広さ、ビッグな走りの機能」「日本の交通環境に適したコンパクトさ」「国情・時代に適合した低燃費、省資源」という設計思想をベースに商品化した。開発チームが最もこだわったのが「5㎡カー」だった。当時、既存の登録車でクルマの投影面積がこのサイズに収まるのはトヨタ自動車の「パブリカ」だけで「室内は広く、外形はできるだけ小さく」することは、快適さと燃費などの経済性を両立させるための譲れない尺度だった。
まず、大人4人が乗れる室内スペースを確保した上で、車両サイズを絞ったものの、計画していた4気筒エンジンでは収まらなかった。そこで3気筒への変更が提案され、市販乗用車では前例のないエンジン開発を進めた。そして、完成したのが993ccで最高出力55馬力とコンパクトながら高性能の3気筒エンジン「CB-10型」である。これを横置きにすることでエンジンルームを最小限に抑えることができ、5㎡カーを実現した。
優れた燃費を実感してもらうために、販売会社主催による「シャレードエコノミーラリー大会(エコラン)」が各地で開催され、その性能が実証されたシャレードは、1978年10月フランスのパリ郊外で行われた「モービルエコノミーラン」に出場。ヨーロッパの経済車のほとんどが参加する伝統あるエコランで、見事1位を獲得した。大衆乗用車として拡販を図るシャレードは、海外の過酷なラリーに参加をし、1982年には、アフリカ・ケニアを舞台とする、サファリラリーにも参加。見事クラス優勝に輝いた。大会会長からは、「わずか1,000ccのクルマがサファリの歴史を塗り替えた」と評された。
シャレードは、誕生してから5年が経過した1983年に、フルモデルチェンジをした。当時世界最小の1リッターディーゼルとなる「CL型エンジン」も搭載し、1983年9月1日に日本列島ノンストップ10周を117日間かけて敢行、リッターディーゼルの信頼性を実証した。
vol.6 1978年
海外市場へ積極的な進出
1970(昭和45)年代半ばから、海外では発展途上国を中心に自動車の国産化政策が相次いで打ち出された。ダイハツは完成車による輸出とともに、KD(ノックダウン=現地組立)生産の推進で各国・地域の実情に応じた市場開拓に取り組んだ。そうした中、1978年にインドネシアに軽貨物車の車体生産会社として「PTダイハツインドネシア」を、現地の自動車大手アストラ社と合弁で設立した。
それまでインドネシアでは各車両のKD部品を輸出し、アストラ社の系列会社で組み立てていた。しかし、インドネシア政府から、1976年に自動車国産化法令が公布され、1978年から積載量1t以下の貨物車では車体の現地調達が義務付けられた。ダイハツの主力車種であった軽貨物車のハイゼットがこれに該当するため、ダイハツインドネシア社がプレス加工などの車体生産を担うようになった。資本参加を伴う海外での現地生産会社としては初めてで、その後の海外事業展開でもここでの経験が生かされることとなる。
1983年には、エンジン組立の合弁会社「PTダイハツ・エンジン・マニファクチャリング・インドネシア」(DEMI)をニチメン(現・双日)及び現地資本と設立、1986年に生産を始めた。インドネシアでは、こうした現地化によって安価で軽便な庶民の足としてハイゼットの人気が高まり、1984年と1985年にダイハツ車は銘柄別販売で1位となった。
インドネシアに続いて1980年にはマレーシアに販売合弁会社「ダイハツマレーシア社」を設立した。販売力の強化を図るためであり、すでに行っていたKD生産も拡充し、シャレード、ハイゼット、デルタを中心に営業展開した。その後、両国での事業は海外戦略の要としての位置を占めるまでに成長していく。
vol.7 1993年
上場以来初の赤字決算から1年で黒字化
平成の幕開けとなった1990(平成2)年代初頭に、日本は土地神話の終焉に象徴されるバブル経済の崩壊に見舞われた。新車需要は1991年から下降をたどり、1992年の軽自動車市場は前年を8.7%下回る162万台と2年連続で落ち込んだ。ダイハツの軽自動車市場シェアも25.1%と低迷、経営を直撃していった。
収益改善や原価低減の活動を推進したものの、市場の冷え込みなど経済環境はさらに悪化し、成果を得るにはいたらなかった。このため様々なコスト削減にも踏み切ったものの、1993年3月期の決算(単独)は経常利益が44億円、当期利益が35億円の赤字といずれも1949(昭和24)年の上場以来、初の赤字に転落した。
赤字からの早期脱却を図るため、1991年に始動させていた中期経営計画「V21計画」を抜本的に見直し、1992年度からは「N-V21計画」の取り組みに着手しはじめ1996年度に達成を掲げた。
利益体質への転換を図る一環として1993年には「低原価車検討委員会」を設置し、従来にない原価低減へのアプローチを始めた。委員会では他メーカー車との比較による車両構造まで踏み込んだ改革案や、品質・技術基準の見直し提案などを推進した。さらに1994年度の会社方針では「超低コスト化活動の推進」を最重要課題と位置付け、新たなプロジェクトによる活動も加えていった。
1994年3月期の業績は、販売実績及び売上高ともに前期を下回ったものの、原価低減など徹底した収益改善策の結果、赤字決算は1期のみに留めた。N-V21計画の最終年度となった1997年3月期には経常利益が前期比約2倍と8期ぶりに最高を更新し、体質転換の成果が業績に反映された。
vol.8 2007年
創立100周年に合わせて
「ダイハツグループ理念」を刷新
2007(平成19)年3月1日、ダイハツは創立100周年を迎え、記念式典を挙行した。この席上で、箕浦社長からダイハツグループの新たな「理念」や「スローガン」などが発表された。それまでの企業理念は1988年に制定されていたので、時代や環境変化に対応させた「ダイハツグループ理念」として以下のように刷新した。
この頃(2006年)の軽自動車市場は前年度を4.2%上回る203万616台と、過去最高を更新し、初めて200万台に到達した。この2006年度にダイハツの軽自動車販売は前年度比4.1%増の61万6,228台となって市場と同様に最高を更新した。シェアは30.3%となり、長年挑戦を続けてきた「軽シェアトップ」を初めて達成したのだった。これは販売会社や仕入先各社などの支援によるものであり、従業員は喜びとともに感謝の気持ちに満ちていた。
軽自動車販売や業績で節目にふさわしい成果をあげたものの、体質改善に終わりはなく、100周年記念式典で箕浦社長が「次の100年に向かって生き残り、成長・発展していくためには自ら率先して変革することが大切」と強調し、たゆまない変革による新たな100年への挑戦に踏み出した。
vol.9 2007年〜
軽自動車で収益を上げられる
ビジネスモデルの
確立に向けた構造改革を推進
トヨタグループ内のブランドメーカーとして、軽自動車を中心としたスモールカー事業に特化してきたダイハツは、軽自動車で収益を上げられるビジネスモデルの確立をするために、構造改革に着手した。
2007年に、当時の国内車両生産工場としては最新鋭となるダイハツ九州株式会社 大分(中津)第2工場の操業を開始。SSC(シンプル・スリム・コンパクト)をキーワードに、第1工場に比べ建屋スペースは約2分の1、設備投資は約40%としながら、第1工場同等の23万台規模の生産能力を持つ革新的なモノづくりの仕組みや、優れた生産性を実現した。
2011年には、リッター30km(JC08モード)の低燃費ながら、当時のハイブリッド車の約半分の価格を実現したミラ イースを発売。エコカーとしてハイブリッド車が躍進していた中、ミラ イースは「第3のエコカー」として「軽の存在意義」を改めて証明した画期的な商品となった。
一方で2010年代に入ると、衝突回避など予防安全のシステムが注目され、ダイハツは軽自動車として初となる衝突回避支援システム「スマートアシスト」を2012年12月に商品化し、主力軽乗用車「ムーヴ」に搭載。先進安全デバイスを他の軽自動車やコンパクトカーにも普及させる先導的な役割を担った。2015年4月には機能を高めた「スマートアシストⅡ」を、2016年にはさらに改良を図り、ステレオカメラを用い、歩行者への緊急ブレーキ機能を追加した「スマートアシストⅢ」を商品化した。
海外事業においては、選択と集中を加速し、インドネシア・マレーシアに特化した事業を推進。インドネシアにおける現地法人アストラ・ダイハツ・モーター社(以下ADM)では2012年に新工場を稼動させ、2013年にはインドネシアにおける戦略車種のひとつであり、エコカー政策に適合する「アイラ」を発売。OEM・受託車も含めたADM累計生産台数は、2017年3月に500万台を突破し、インドネシアの自動車メーカー初の快挙となった。
マレーシアでは、競争力向上に向けたプロドゥア構造改革を推進し、2012年に新工場を有するプロドゥア・グローバル・マニュファクチャリング社(PGMSB)を設立。2014年に「アジア」、2016年に「ベザ」といった新型国民車を相次ぎ投入した。
2016年には、トヨタ自動車の完全子会社化となることを決定し、トヨタ自動車およびダイハツのさらなる持続的成長に向け、同一戦略のもと、新興国を中心とした小型車事業において協業を進め、両ブランドにおける『もっといいクルマづくり』をいっそう進化させることで、両社の企業価値向上に努めていくこととした。
2017年3月の創立110周年を機に、新グループスローガン「Light you up」を掲げた。グローバルな市場の動きと、技術変化を見据えながらも、ローカル(地域)のお客様一人ひとりを最優先した商品やサービスをご提供すること。このような方向で、ブランドを進化させることが、新しいスローガンである「Light you up」につながると考え、今まで以上に「ダイハツらしさ」を進化させ、「世界に無くてはならないブランド」に成長させていく。